8月27日の午前2時40分過ぎ、「精神障害者」解放闘争を闘いぬかれてきた大野萠子氏が白血病により逝去された。1936年1月生、享年77歳であった。
氏の人生はまさに「精神障害者」解放闘争とともにあった。氏は、発病以降、劣悪な精神医療や人権侵害に怒りを燃やして、病院や精神科医を糾弾してきた。
1974年、全国「精神病」者集団が結成された。全国「精神病」者集団は1975年の第2回大会で「赤堀さんを殺して私たちに明日はない」と「島田事件」の無実の「死刑囚」赤堀正夫氏を奪還する赤堀差別裁判糾弾闘争への取り組みを決定したが、氏はその中で奮闘されてきた。氏は、1978年11月26日、全国「精神病」者集団、全障連、各地「赤堀さんと共に闘う会」で構成する赤堀中央闘争委員会を結成し、委員長としてその中心的な役割を担い、「精神障害者」「障害者」と学生や労働者の地域的日常的な共闘を提起しつつ、再審に向けた闘いを指導した。また、宮城刑務所による赤堀正夫氏への獄中弾圧―面会・文通制限に対する闘いを闘いぬき、氏のその闘いは実力闘争として、1989年1月30日の赤堀氏が奪還されたその日まで続けられたのである。氏は、赤堀氏が奪還されて以降、名古屋で赤堀氏と生活を共にしながら、亡くなる直前まで、赤堀氏の体調維持や生活を支え続けてこられた。
氏は、地域の「精神障害者」の生活や医療の相談を受ける日々の一方で、死刑制度に反対し、冤罪を訴える「死刑囚」の救援のために奔走した。
また氏は、長年に渡って「精神障害者」を隔離・抹殺する刑法改悪―保安処分新設阻止に向けて体を張って闘い続けてきた。1980年の「新宿バス放火事件」、81年「深川通り魔事件」などの事件を口実に、政府・法務省は日弁連を屈服させ刑法改悪―保安処分新設を策動した。氏は、烈火のごとく怒り、政府・法務省とそれに屈服した日弁連との「パネルデスカッション」粉砕闘争、「意見交換会」粉砕闘争の先頭には、常に氏の姿があった。われわれもまた、氏や「精神障害者」「障害者」と共に闘い抜いてきた。
宇都宮病院入院患者差別・虐殺糾弾現地闘争には、この闘いに思いを寄せる「精神障害者」として毎年連帯アピールを寄せられた。「心神喪失者等医療観察法」撤廃に向けた闘いの途上で、氏が亡くなられてしまったことは、余りにも残念である。
氏は、まさに死の直前まで「精神障害者」解放闘争に闘志を燃やされ、闘いのなかで逝った。
われわれは哀悼の意を表するとともに、「精神障害者」解放闘争、「障害者」解放闘争を闘いぬくことを、ここに決意し、追悼とする。
刑法改悪阻止関東活動者会議